若妻脅迫にうってつけの日 その1
携帯電話が歌いだした。
比嘉瞳は慌ててそれをバッグから取り出し、
ボタンを押して音を止める。
今の携帯電話は、耳障りな電子音ではなく
美麗な歌声で着信を知らせるが、
どちらにしても電車内では迷惑なものだ。
「当電車は梶野発快速、棗行きです。
次は、冨村~、冨村です。降り口は、左側です」
車掌の気だるげな声が合図だったように、
瞳は座席から立ち上がると、
進行方向を向いて左手の扉の前まで歩いた。
少しずつ、車窓の流れが緩やかなものに変わっていく。
瞳は夫の居る冨村駅のホームに目線をやった。
ドアが開くと同時に足を踏み出そうとして、瞳は
ホームと電車の間に15センチ近い隙間があることに気付いた。
彼女はつまづかないように、足元を見ながら
ゆっくりと冨村駅のホームに降り立つ。
そんな彼女の背を追い抜くようにして、乗車客達が
ばたばたと下り階段に向かっていく。
冨村から日向線に乗り換えるなら
2分かかる通路を1分半で駆け抜けなければ
次の電車に間に合わないのだ。
この駅が目的地の瞳は、疾走する乗客達の流れの中、
まるで迷子の子供のように立ちすくんでいた。
夫の姿を探して、視線を左右に軽く振る。
紙コップの自動販売機の横に、見慣れた顔を見つけて
瞳は小走りに駆け寄った。
「この封筒で良かった?」
比嘉寛治は右手を軽く上げて「うん、それそれ!!」と返す。
それから瞳の肩に手を置いて「有難う」と礼を言った。
「悪い、助かった。これ無かったら死んでた」
「あれだけ明日は絶対にこれを持っていく、って言ってたのに
当日になって出てったらソファの上にあるんだもん、笑っちゃうよ」
瞳はそう言って、実際に笑顔を見せた。
「あー、焦った、脂汗一杯かいた」
少しぎらついた額を、寛治は手の甲で拭った。
冗談めかしているが、本当に困っていたのだろう。
片道一時間の道のりをわざわざやって来て夫を助けた自分を、瞳は心中で自賛した。
内助の功、という古めかしい言葉を思い出す。
「試験近いからな、こういうミスが一番痛いからさ」
瞳に渡された書類を大事そうに抱えて、寛治はため息のように言葉を発する。
「うん、でも無理しないでね」
我ながら芝居がかっている、と思う台詞だが瞳の偽らざる本心でもあった。
夫は少し無理をし過ぎている。
彼女はそう考えていた。
実際、数年前に寛治が生活安全課の課長になってから
倒れこむようにして帰ってくることが増えた。
子供と戯れることも減り、休日に遊びに行く話など
到底振れないような状況が続いた。
不安が表情に出ていたのだろう。
寛治は瞳を見つめると、頭を撫でて「大丈夫」とだけ言った。
「裕樹はどうしてる?」
「お母さんの家に今預けてる。泣いてなきゃいいけど」
瞳はそう言うと、電線の架かった空を見上げた。まるでそこに息子がいるみたいに。
瞳が二十一の時に生んだ一人息子は、まだ母恋しい年頃で、そのくせ冒険心が強く
デパートや商店街ではぐれてはいつも泣きじゃくっていた。
「裕樹の誕生日は、早く帰ってきてね」
「あ、そうか。もうそんな日か。アイツ、今幾つだっけ?」
「忘れないでよ!! 四つよ。もう」
つい声を荒らげそうになる。
「悪い、悪い。あ、そろそろ時間だな。じゃ、行って来るよ」
「うん……気をつけて」
通勤客の波に乗り、階段を下りていく夫を
瞳はその姿が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
息子を預けて、夫を送り出した朝。
瞳にとって、完全に一人になれる時間はここしかない。
貴重な自由時間を得た彼女は
今しか出来ないことをしよう、と考えた。
彼女は少しだけ浮つきだした気持ちを抑えて、
ホームの反対側に立った。
電光掲示板を横目でちらりと見る。
次の電車までは五分程度だ。
冬の朝は冷たく、ホームから見える景色に色は無かったが
彼女はその澄んだ空気が嫌いではなかった。
ほとんど化粧をしていない頬に掌をあてて、
は、と息を吐く。白い霧が舞って消えた。
携帯電話が唐突に平井堅を歌いだしたので、
瞳は再びバッグを開いた。
「瞳を閉じて」は電話でなくメールの着信である。
真っ赤な折りたたみ式携帯をぱか、と開くとそこに
着信メールのタイトルが画面に映っている。
「Subject:Threateningletter」
「From:i_am_groper_so6_mad9@nixy.ne.jp」
英語のタイトルを見た瞬間、迷惑メールの類だな、と瞳は直感した。
少なくとも友人には、英文のタイトルでメールを送るものは居ない。
それから一応メールの本文を開いたものの、
中身は何も書かれていなかった。
「何これ?」
困惑を思わず口に出す。意味が分からなかった。
「あ、なに?」
メールに添付ファイルがついていたことに、瞳は気付く。
画像ファイルは自動で開かないように設定してあるのだ。
誰からとも知れぬメールの添付画像を開くことに抵抗はあったが、
本文が無い以上、送り主のデータはここからしか得られない。
そう言い訳して、好奇心を糊塗した瞳は
軽い気持ちで添付画像データを開いた。
「……?」
一瞬、何が映っているのか分からず、彼女は戸惑う。
そして目を凝らして、それからやや離れて見て、
ようやくその画像が何なのか瞳は理解した。
それと同時に、頭の中に疑問と不安が次々と流れ込む。
その量は彼女の処理能力を超えていた。
メールに添付されたファイルには、奇怪な画像が
差出人の悪意と共に封じられていた。
画像は携帯で撮ったものらしく、小さかったが、
それでもそこに映っている主婦が瞳であることは明白である。
手提げバッグに、シャープペンやら消しゴムやら
盗む必要などまるで無い数百円の代物を詰め込んでいるその姿。
周囲を警戒する鋭い視線と、あくまでも
さり気なさを演出しようとしている手つき。
その姿を客観的に見た彼女は、初めてその醜さに気付く。
それ以上に、「撮られていた」という事実に動揺していた。
一体誰が、何で、何のために、何故このアドレスを、いつ、
どうやって、そして、何故、どうして、何故。
思考が止まった。
この状況は明らかに大事だ、と認識はしているものの
「この状況」を正確に理解できていない瞳にとって
出来ることはただおろおろとするくらいである。
メールの送り主も分からない。
当然、その目的も分からない。
何故彼女のアドレスを知っているのかも分からない。
万引きしている場面をどうやってカメラに収めたのかも分からない。
今、何をすべきかも分からない。
ただ、万引きが公になることだけがやたらと恐ろしかった。
それはとりもなおさず、寛治にも知られるということである。
それだけは避けたかった。
だが、それを避けるにはどうしたらいいのか、彼女には分からない。
電車が来るより早く、次のメールがやってきた。
二通目のメールは、最初のものとタイトルこそ一緒だったが、
アドレスが別のものになっていた。
画像がまた一枚添付されている。
それも瞳が万引きをしている場面である。
こちらは先ほどのものより、さらに手元が大きく撮られていて
間違いなく「証拠」となるものであった。
相変わらず本文が無いので、彼女はただ怯えるだけで
どうしたらいいのかも分からない。
電車が来るまでの五分間で、
この不審なメールが計四通瞳の元に届いた。
それらのメールには全て画像が付けられていて、
その全てが、様々な角度から撮った瞳の犯罪証拠であった。
別に、消しゴムやシャープペンが欲しかったわけではない。
仮に欲しかったとしても、買えば済む話である。
公務員の夫を持つ瞳が、数百円の文房具を万引きするに至った理由は
精神的な飢餓感にあった。
どんな犯罪にも、「踏み越える瞬間」というものがあり、
それは殺人から立小便にまで遍く存在している。
「バレたらどうしよう」という不安や恐怖感。
成功したときのリターンへの期待感。
自分の行為によって不利益を被る人に対する罪悪感。
日常から一歩外に踏み出したという興奮。
それらを胸のなかでかき回して、それでもなお
「やってしまえ」と思った瞬間、人はラインを踏み越える。
瞳は初めてその境界を踏み越えたときのことを思い出す。
複数の潜在熱源が、彼女の腹の中にあった。
忙しい夫や遠く離れた両親の手を借りずに、
ひとりで子供を育てることに対する「疲れ」があり、
それを誰からも褒められも労わられもせずに、
当たり前のこととして見られることに対する「不満」があり、
自分の好きに出来る時間が全く無いという「鬱屈」があり、
子供が泣いたり、わめいたり、暴れたりしたら、
それを全て自分のせいにされ、白眼視されるという「苛立ち」があり、
何のために自分が生きているのか見失いそうな「閉塞感」があり、
寛治の妻、から裕樹のお母さん、となり、
自分自身のアイデンティティが希薄になっているという「不安」があった。
初めての犯罪は、本能的なものだった。
彼女は周囲の確認もせずに、持っていた黄色い消しゴムを
自分のポケットに入れた。
それから、しゃがみこんで、棚を見る振りをする。
店員がこちらを見たとき、心臓が跳ね上がりそうになった。
しばらくウロウロしてから、何食わぬ顔で店を出た。
百メートルを全力疾走したような鼓動が突き上げる。
返さなきゃ、と心の表面で思いながらも瞳は
「万一バレても文房具なら謝れば平気だろう」と薄汚い計算をしている
自分にも気付いていた。
その日は、下腹部の潜在熱源がほんのわずかだが、治まった。
それからは、月に一、二回のペースで店に通い
その都度、陳列棚から品物が消えた。
店員は表情から愚鈍と分かるような若者と、
極端に視野の狭そうな中年女性の二人だけ。
灰色のロングスカートに白のセーター姿の瞳は、
その顔立ちも手伝って、上品で清楚な印象を振りまいており、
間違っても万引きをするような人間には見えないだろう。
事実、二人の店員は警戒する素振りも見せなかった。
盗んだ文房具は、帰路の途中でコンビニのゴミ箱に捨てていた。
いつかは露見するのではないか、という恐怖感はあったが
下腹に熱を感じるたびに、彼女はあの店に足を運んでしまう。
この感覚は他の行為では代替出来ないことを、彼女は良く知っていた。
「間もなく、下り列車が参ります。黄色い線の内側でお待ち下さい」
その放送が流れても、瞳は携帯のモニターから目を離せなかった。
四枚の、万引き画像。
それぞれ瞳の服装は違っていた。
つまり、四日間かけて撮られた写真なのである。
全て見られていたのだ。自分は泳がされていたのだ。
と、そこまで考えてみても、やはりこのメールの意図は推し量れなかった。
一体、誰が、何のために、どうやって。
瞳の当惑など知らぬ電車は悠々と駅に滑り込み、
呼吸するように乗客を出し入れしはじめた。
このまま立ち尽くしていたい気分ではあったが、
瞳の足はふらふらと車内に動いていく。
この走る密室にこそ、犯人の目的があることに気付きもせずに。
通勤ルートと逆行する電車はひどく空いていて、
座席もぱらぱらと空いてはいたものの、
座って落ち着く気分になれなかった瞳は
ドアの前に立ち、横の手すりに掴まった。
鼻から大きく息を吸い込み、
熱のある溜め息を吐き出す。
また携帯電話が鳴った。
びくん、と瞳の身体が震える。
慌ててバッグから携帯電話を取り出すと、
ボタンを押して歌う平井堅を黙らせる。
また差出人の違うメール。
今度は本文がついていた。
「向かいのホームを見ろ」という一文が。
瞳は言われるがままに、窓の外に目をやり
その異様な人影に気付いた。
ホームに一人立つ、黒いダウンジャケットを着た男。
頭をすっぽりと覆ったフードも、
下に着ているジャージも、靴もサングラスも
そして手袋までもが黒かった。
電車が去り、誰も居ない駅のホームに男はただ立って、
こちらに何か面白い見世物があるとでもいうように
目線を寄越している。
その姿は、色彩画に垂らした墨汁の如き異質な存在感を持っていた。
ことにこのときの瞳には、その姿は悪意の塊にさえ見えたのである。
車窓がゆっくりと動き出し、瞳の身体がわずかに揺れる。
車内が出入りできる「建物」から、移動する「密室」に変化したことを彼女は意識した。
脅迫されている。
否、このときの瞳の認識はまだ
「脅迫されているのではないか?」といった
曖昧なものだったのだが、
とにかく混乱の渦中にあった彼女は
最初、その接触に気が付かなかった。
一瞬「膝の裏がかゆいな」と思っただけである。
「それどころではない」といった気分ですらあった。
けれど、そのかゆさは無視できるものではなく
彼女は思わず体を曲げて、窓の外を見たままで膝の裏を掻いた。
ぱち、と後ろに立っていた人間と手が当たった。
彼女はすぐに振り向き「すいません」と謝る。
それからぽりぽりと痒い部分を掻いた。
次の接触で、瞳はようやく状況を飲み込めた。
今度ははっきりと、膝の裏をさすられていることが分かったのである。
人差し指と中指の「指の腹」が、
まるでスケート選手の足のように交互に
彼女の膝の裏の上を滑っている。
すり、すり、と。
それが背後の男の指先だと理解した瞬間に
彼女の腰から首筋にまで寒気が駆け上がった。
痴漢!?
彼女は「ただでさえ得体の知れないメールで困っているのに、こんなときに!!」という
強い怒りを感じて振り返った。
背後に、メガネとスーツとネクタイと多少脂性の顔を装備した
何の特徴も無いサラリーマンが立っていた。
背後の男をぎろ、と睨んだ。
瞳とて、痴漢にあったことは初めてではない。
睨むという行為が痴漢撃退に意外と効果が大きいことを、彼女は知っている。
元より、こういった場でしか歪んだ性欲を発揮できない臆病者である。
女性に真っ向から敵意をぶつけられてなお、
行為を続けられるほどの矜持があるはずもない。
「大声を出されては困る」とか
「助けを呼ばれては困る」という弱みがあるのは
向こうのほうなのである。
大抵の場合、睨まれた痴漢は
不承不承とばかりに、文字通り「手を引く」ものだ。
だが、このときの痴漢の対応は全く過去のケースとは違っていた。
睨まれた痴漢が、にたあ、と笑顔を浮かべたので
瞳は思わず前に向きかえってしまった。
余りの予想外の対応に驚いた、ということもあったが、
なによりその笑い方に彼女は恐怖を感じた。
自分の勝利を確信している。
自分の優位は揺らがないと思い込んでいる。
何故?
また膝の裏に感触があった。
柄にもなく、膝を丸ごと露出するスカートなんか履いてくるからだ。
彼女は僅かに後悔する。
最悪、と内心毒づく。
だが、大声を出して助けを呼ぶ、という行為を
選ぶほど、追い込まれているわけでもなかった。
瞳は痴漢を相手にしないでおくことに決めた。
だが、男の性欲は病と同じで
放っておけば治まるというものではない。
膝の裏を這い回る指先は、車両の振動のリズムに
後押しされるように早く、そして粘っこくなっていった。
両膝の裏のくぼみを、二本ずつの指先が
触れるか触れないか、くらいの位置でするすると蠢く。
気色悪さより、不快感より、恐怖感より、
さらに強い「くすぐったさ」が彼女の身体を動かした。
くすぐったさというものは、我慢しようと思って
耐えられるものではない。
彼女の肩は10cmほどの間隔で左右に蠢いた。
膝を動かさないようにすると、上半身が動いてしまうのである。
痛みを耐える方法はある。
だが、くすぐったさを耐える方法を、人は学ばない。
瞳は上半身を左右に振りながら、
周囲に見られているのではないか、という不安を抱いた。
それほど込んでいない車内で、
窓際に立つ女と、その背後に密着する男。
そして女は上半身を、まるで踊るように左右に振っている。
かなり目立つ光景ではないか。
「ぅ、ふぁ……っ!!」
声が出そうになった。
男の指が、膝の裏から太股の側面に這い上がったのである。
少しだけ、スカートがめくれていた。
びく、びくん、と大きく身体が弾んだ。
無論、それはくすぐったさからであるが、
傍からは、彼女が性感を得ているように見えたであろう。
いくらなんでも――。
彼女は無視しきることを諦め、両手で男の指をなぎ払った。
女性なりに渾身の力である。
ばしん、と軽快な音がしたように彼女は感じたが
実際はびち、と鈍い打撃音が小さく鳴っただけであった。
男の二本指は彼女の形のいい脚から離れた。
それから背後の男を睨みつけ、今度は言葉を放った。
「なにしてるんですか」
低い声であった。
それは、ドスを効かせよう、という攻撃的な狙いと、
周囲に聴こえないようにしよう、という防御的な狙いを兼ねていた。
間違いなく、一字一句違いなく、男の耳に届いたはずだ。
「なにしているんですか」
敬語を保ったのは、彼女なりの女性としてのプライドである。
本当はもっとぎらぎらした、暴力的な言葉がノド元まで上がっていた。
触るな、気持ち悪い、なんで勝手に人の身体撫でてるのよ、このメガネ。
気色悪いのよ、クソ野郎、警察突き出してやる、この変態野郎。
彼女はそれを口に出さず、あえて「なにしているんですか」に留めた。
それが比嘉瞳という女性の、ひとつの生き方なのである。
――対する痴漢の反撃は、たった一つの言葉だった。
「せっとうはん」
痴漢は、ぽつり、とそう言った。
瞳にしか聞こえない、電車の騒音に近い波長の声。
せっとうはん?
少し考える。
「なにしているんですか」→「せっとうはん」
会話になっていない。
更に考えて、「せっとうはん」が「窃盗犯」に変換された瞬間、
彼女の頭の中で、二つの困った事象が結びついた。
「謎の脅迫メール」と「今遭遇している痴漢」は
別個の問題ではなくて、もしかしたら一つの問題なのではないのか、と。
また指先が触れてくる。
今度は膝の裏にとどまらず、太股の側面や
内股にまでその陰湿な穂先は伸びてきた。
瞳は肘で、男の腕を払いのけようとする。
その瞬間、彼のあごが、するりと肩に乗せられていた。
ふふぅう、という熱い吐息と共に
「もうすぐ警視になれるのにねぇ」という一言。
その言葉に、瞳は震え上がる。
「試験近いからな、こういうミスが一番痛いからさ」と言ったときの
夫の疲れた笑顔を思い出した。
「身内に犯罪者出すと、大変だよ」
背後のサラリーマン風の男は、瞳の動揺を嗅ごうとしているのか
鼻をひくひくとさせながら、指先で脚のラインを撫でている。
「特に、警官は……」
男の声は、勝利を確信していた。
これから先に確実に訪れる愉悦を想像して
自分の肉欲を掻き立てている下卑た声そのものであった。
触れなくとも、男が勃起していることが分かるほど、
その気配は濃厚で、瞳にとってこれほどストレートで
純度の高い性欲を向けられるのは初めての経験であった。
瞳の股下から、膝にかけて描かれた流麗なラインを
男は五本の指先でねっとりと撫でていく。
つい、と指先が太股の上を踊った。
男はあくまで、握ったり揉んだりすることのない
「触れるだけ」に徹した。
さっきの「くすぐったい」という感覚がまた彼女を襲う。
乾燥した指先が産毛をこする感触は、耐え難いものがあった。
鳥肌が立ったまま治まらない。
なによりも不愉快なのは、気色悪さの中に
ほんのわずかだけ物理的な快楽が滲んでいたことである。
それは、生ゴミのそばを歩いて感じたフルーツの甘い匂いのような
「不快感を助長する快感」であった。
ふぅ、と首筋に後ろから息がかかった。
ふぅ、ふぅ、と一定のリズムで、鼻息が聞こえる。
出している本人では気がつかないものだろうか。
瞳は脚を虫が這いまわっているような気分のまま、
それでも周囲を気にした。
痴漢されることも嫌だが、
彼女はそれ以上に事件を大事にされることが嫌であり、
さらに自分の万引きが公になることも嫌であった。
十センチ以上巻き上げられたスカートは、
すでに下着を隠す役割を果たしていない。
このまま階段を下りれば、登ってくる人間に
色も柄も分かるくらいに下着を見られてしまうだろう。
男は小さい声で「脚を開いて」と言った。
男の右手が、瞳の脚の付け根にまで来ていた。
その指が下着の上から、陰毛をつまむような動きをしている。
脚を広げればどうなるのか、瞳は一瞬で理解し
「嫌です」と一言、とても小さい声で反駁した。
首をほんのわずか回して、「触らないで」と付け加える。
怒りよりも不安と恐怖を強く感じている彼女の声は、やはりか細かった。
指の太い左手が、彼女の尻の表面を撫で回している。
その体温の高さは、男の精神状態を如実に表していた。
「脚を開いて」
男は彼女の些細な反抗を、意にも介さずに
もう一度同じ台詞を吐いた。
「四十になっても五十になっても警部止まりの奴も居れば、
三十代でどんどん上がっていく人間も居るんだからなぁ。
警察ってトコもなかなか大変だ」
男は、唐突に呟く。彼女の身体に手を置いたまま。
「如何に前途有望でも、不祥事があれば
塩漬けにされるのは間違いない」
夫のことを言っている、とすぐに気付く。
「そうすると、どうなる、かな?」
そこまで言って、男は動きをとめた。
もちろん、手は密着したままである。
自分の犯罪が公になった場合について、
瞳は具体的に想像を働かせた。
夫が昇進のために、身体を酷使してまで
頑張っていることは痛いほど知っている。
そして、彼が昇進したいのは出世欲もあるだろうが
愛する妻子を、より幸せにしたいから、という願いのためだということも。
今、試験を目前に控えて、その妻のチャチな犯罪のために
全てがふいになり、さらに仕事場での立場も悪化したら――。
そこにどれほどの亀裂が走るのだろう。
彼女はこのとき初めて、自分の行いを悔いた。
なんであんなことしたんだろう。
もしこうなるって知ってたら、絶対しなかったのに。
「脚を開いて」
少し間を空けて、男は三度同じ台詞を口にする。
瞳が現状把握する時間を与えたつもりらしい。
彼女は迷いながら、ほぼ「気をつけ」の状態だった両脚を肩幅に広げた。
スカートを捲くり上げ、下着の上から陰毛を摘んでいた指が
無造作にずるりと、瞳の裂け目へとすべりこむ。
「奥さん」
男の唇が、瞳の耳たぶに触れた。
思わず、びくんと首を回転させてしまう。
痴漢は彼女のそのリアクションが気にいったらしく、
なんども首筋や耳にキスを求めてきた。
そして「赤ちゃん生むと、おまんこ感じやすくなるって本当?」と
瞳に訊ねてきた。
「……知りませ、んっ」
腹に力を込めていたせいで、勢い良く声が出た。
あくまで声は小さかったが、そこには強い瞋恚がこもっている。
「知らないはずないよ。自分の身体のこと」
男はさっきまでより、少し砕けた口調で囁きかける。
そして男は、薄い生地の下着の上から指の腹で、瞳の陰核を撫でた。
触れるか触れないか、くらいの、恐ろしく繊細な動きで。
ぴく、と彼女の体が反応する。
それは性感によるものでなく、危機感に基づくものだ。
男の二本の手が、瞳の陰核と尻を撫で回している。
艶があり、ざらざらしていない彼女の肌は、指の動きを妨げなかった。
陰部に触れる指が、くいくい、と下着を食い込ませた。
執拗。
という意外に、男の指を評する言葉が瞳には思い浮かばない。
それくらい、男はねちねちと彼女の体の表面をこすり続けた。
くすぐったさにも不快感にも慣れなかったが、瞳はどこかで
「このままやりすごせばなんとかなる」という感覚も抱いていた。
電車の中で、これ以上酷い目には合わないだろうと。
だから、彼女は飽くまで大声など出さず、暴れもせずに
せいぜい指先で払う程度の抵抗のみを繰り返した。
わずかに熱をもった己の下腹に、気がつかないふりをしながら。